もう一つ、だんだんとわれわれの活動が学名で知られてくるに従い、いわゆる本チャンといわれる人が入部を希望してきた。一つは体育会サッカー部に入ることができなかった人たち、そしてその枠内にとどまらなかった人たち、の二つのグループだ。この人たちは本来的に技術も高いプレーヤーなので、我々のレベルアップにも役立つし、彼らのプレーの場が確保された、という意味で、大きな成果があったのかもしれない。もちろん一部それにより、我々の和やかな雰囲気に水が差されて、以前からの部員の失望と敬遠につながった、という負の部分もあったかもしれないと思っている。
そしてその中に、高校時代に全国大会で勇名をはせた、というプレーヤーがいたが、これがどういうわけか何よりも喧嘩好き。「今度の試合はいつですか?」と訊いてきて、「来週だよ」と伝えると嬉しそうにするのだが、それはプレーよりも喧嘩のチャンス到来、ということで、早くも興奮。そして試合になりキックオフとなるや否や、もう相手選手と小競り合い。ポストプレーの名手だったので、どうしてもデイフェンダーに狙われる。試合が佳境に入れば、彼も佳境。どこかで言い合い殴り合い。審判を多忙にさせる。試合後クレームが出てきて苦慮。その繰り返しであった。しかしプレーはさすがに全国大会出場者、ということで、大変頼りにはなっていた。よく調べたところ、彼は6大学のサッカー部に入ったが、あまりの喧嘩っ早さに退学同然となったらしい。えらいプレーヤーを引き受けたものだった。でも私が怒ると不思議にその場は頭を下げて反省しきり。次の試合まではよい人物であった。彼なりに、イーグルスを追われたらもうサッカーをするところがなくなってしまう、という危機感があったのかもしれない。今彼はどのような人生を送っているのだろうか? 懐かしいが会えないし、消息も分からない。
もう一人は約一年だけの付き合いであったが、卒業まで仲良くしていた一人っ子。背が高く、ヘディングがぬきんでていて、卒業後なんと名門ヤンマーに入社、日本リーグでプレーしたのには恐れ入った(※5)。あの釜本選手と一緒にプレーしていた。当時のヤンマーはすごかったが、釜本選手というのは、日本選手の中では今でもその右に出る人はいないであろうレジェンド、いや、強者であったと思う。ただし一度早稲田大学の後輩の練習に参加していた彼を見ていたが、本当の天皇であった。人間的な面で人気が薄かったのであろうか? 日本サッカー界にとって本来であればもっと大きな仕事をしてもらえる人だったろうに、との思いが強い。
また、1966年の夏、忘れもしないビートルズ初来日の時に、ビートルズと入れ替わりにスペインへの夏季留学に出発したのである。当時羽田にほとんどチーム全員が見送りに来てくれた。一人一人が役目を持っており、小生が買いにくいもの(※6)も揃えられていた。男同士の友情を感じたものであった。ヨーロッパに行くとサッカーがすべてといえるほどであった。留学中にロンドン・ワールドカップ(※7)があった。その時に白黒であったが、テレビでペレを見て度肝を抜かれた。後にも先にも小生にとってはサッカーの最高の位置にいる人物であり、その後、夢が昂じて会社に入ってからサントスで本人と面談し、東京に来た時には赤坂プリンスでファンにもみくちゃになりながら彼との再会を果たした。ちなみに留学の土産にチームに持ち帰ったのが、ADIDASのボールであった。