「当時、2部は16チーム。2つに分かれてのリーグ戦、いろいろあったけど、なんとか2位になり、入れ替え戦出場を賭けた3位決定戦までコマを進めた。教育大のグランドで日大生産工学と… 開始早々1点取ったんだけど、あとは押されっぱなし。追いつかれて最後は小野クンがPK取られて2:1で負けちゃった。ホイッスルが鳴ったら涙が止まらなくって。イーグルにいて一番悔しかった試合です」
「そうだったね、誰々?今のシュート?とか、応援もしながら見てるわけで、背番号見えなかったり(当時はゼッケンは背中だけという事情も)、選手交代のカードも準備しなきゃいけない。スコアラーって一人じゃ難しい。でもその口惜しさが翌年の一部昇格につながったんだからよかった、よかった」
「全然、あの年はスペイン語科は売れ筋で、行こうと思えばどこだって行けたと思う。でも日本サッカー協会には問い合わせしたんだけど、いらないって。ジンナンFCなんていう女子のチームができて、入ろうかと思ったんだけどトシだし、非経験者ということでNG。とはいえ、あの年は晴れて一部昇格! 私、吉祥寺の病院から戻って間に合ったんだ」
「なにしろヒロシ(小川宏)が法学部のストライカー高木さんのマークで、お尻も脚も蹴りまくってた。あれは今だったら、たちまちイエローカード2枚で退場だよ。先制点がジュン(小川純)でダメ押しが澤村クン、よくできました。腰痛癒えた小野クン(小野透)がサブにいたのも安心だったでしょう」
「ねえ、一部入りしたって私が定職についちゃったら応援にも差し支えるでしょう。『就職』なんてなしなし(笑)。卒業して1年間は本屋さんでバイトしたり、中南米から来た踊り子さん(ストリッパーともいう)の通訳したり、人生経験を積ませてもらいました。母が気を遣って、翌年には海洋博の通訳、VIPコンパニオンなんて仕事を探してきた。75年の6月から翌年1月まで沖縄、そこで出会ったのが元日本代表、日立の近江友介さん。さっそくサッカーしようということになり、FCエクスポと名護高校の試合。私、主審として笛を吹かせてもらいました」
「いやいや、それは違います。結婚式でみんなに1982年のスペインワールドカップに向けての戦略結婚だろうって言われたけど、それは秘密」
「はい、チギさん(チギ・ペギリスタイン/元浦和レッズ)の関係で、グアルデイオラさんや、ストイチコフさん、ポチェッテイーノさん、みんないい人たちです。章クンの会社のルートでスペインのチームと契約した西沢明訓、家長昭博。日本人の通訳ってサッカーの言葉わかってる人じゃないとうまくいかないので、マジョルカまで呼ばれたこともたびたび… アーリア・ジャスール長谷川、湘南でうまくいってるのかなあ? 心配だよ。 双子の娘たちもサッカーしたけど、二人ともデイフェンダー。サッカーはハーフのほうがおもしろいと思うんだけどなあ。とはいえ、私の原点はやっぱりイーグルなの。眠い目をこすりながら四谷の駅に降りて、グラウンドへの階段を下りていく、あの朝の私を包む空気が青春だった。あの日が今の65歳の私につながっているんです。45周年も50周年も顔出せなかったけど次は必ず行くからね」